2013-08

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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】最終回

お通夜が終わって、場所を移り会食になります。
ほぼ、親族家族での顔ぶれです。でも、全員の顔が分かるのはお前だけだと兄に云われ、私から簡単にご紹介。
その中に、私のブログにコメントをくれた子がいました。もう大学生です。私から縁故関係を云うと、オヤジの弟の娘の子どもです。なかなかのイケメンです。やはり特撮ヒーローものが好きなようで、大学でもサークル活動をしているようです。時間があれば、彼のサークルでお話しする約束をしました。

以前は、オヤジの母が存命中は親族がオヤジの弟の家に集まり、年々子どもが増え大騒ぎの正月でした。祖母が大往生してからは、その会も立ち消えになりお互いの交流はわずかになり、情報も途切れがちです。

もっとも、私たちの世代がもっと交流を深めていればよかったのですが、現実はそうでもありませんでした。

お食事も終わり、私以外は一度帰宅したりホテルに向かいました。

私は、オヤジと話がしたくて斎場に泊まることにしました。

ひとりでオヤジが眠る祭壇に向かい、灯りをつけて線香にに火をつけて話かけました。
内容は、オヤジとの内緒話です。

その夜も、なかなか寝付けません。その度にオヤジの祭壇へ向かいます。
話しかけたり、無言でずっと座って笑顔のオヤジの写真を見ていたり。

夜が明けて、身支度をして親族を迎えます。

9:00に告別式が始まりました。

念入りな読経が終わり、棺を祭壇から部屋の中央に据えました。
オヤジの愛用品。これしか考えられませんでした。

浅草 満寿屋特注名入り原稿用紙 実際に入院時に使っていた2Bの鉛筆3本 

そして、オヤジの自伝奮闘記【泣き虫プロデューサーの遺言状】1冊

進行役の指示で、たくさんの献花をオヤジの棺に入れていきます。もうこれでもか、これでもかというくらいに。

我慢していた涙が溢れてきました。嗚咽がとまりません。

もう、オヤジの亡骸でも、実体としてのオヤジの姿を見るのは最期になるんだ、という寂しい気持ち。
泣き崩れるかもしれないところを、グッと堪えました。誰かが私の背中を優しく支えます。

進行役の指示でオヤジの棺が電動のカートのようなもので火葬場に運ばれる後を、お坊さん、喪主、位牌、写真、その後に親族が続きます。

火葬場の6番です。儀式なのでしょうが喪主が6番の鍵を預かります。

火葬の扉が開き、オヤジの棺を納めます。

ゆっくりと扉が閉まります。きれいに焼き終わる時間は1時間以上です。

それまで、2階にある控え室で親族一同待ちます。なんともいえない時間です。
何かお喋りしていないと、落ち着きません。何の話題をお喋りしたのかも、覚えていません。

やがて、火葬が終了した連絡があり、またお坊さん先頭で6番扉まで向かいます。
最初に、お坊さんと喪主、兄が6番であることの確認があります。

確認後、6番の扉が開きました。開きましたが、点くはずの電灯が点きません。
点検しましたが、点きませんでした。進行役は決して慌てません。

骨壷に収める儀式に入ります。
おどろいたことが、2つありました。1つは、あれだけやせ衰えたオヤジでしたが足の骨、特に主要な太い骨は健在で関節もきれいに残っていました。2つめは、頭蓋骨そのまま残ると勝手に予想していましたが、顎の骨、耳の側、のど仏などはきれいに残っていましたが、残りは粉々です。理由を、お坊さんが教えてくれました。

昔に比べて火葬場の火力が強くなったのですよ。だから、頭蓋骨は残らないことが多いのです。

また、進行役の方に指示され、2人1組で骨壷のオヤジのお骨を収めます。

最初は、私と兄。大腿骨のしっかりした骨を2人掛かりで運びます。

親族が一通り収め終わると、進行役が主要なお骨の部位を説明してくれました。

すべてのお骨を収めようとしたら、入りきりそうもありません。

進行役がひと言、親族に言って(なんて云ったか忘れました)ギュッギュッって押さえ込んで蓋をしました。

きれいな箱に、埋葬許可証と一緒に収めます。箱の外は、よく見かける黄金色の菊の紋章が入った布を被せます。

ここ、重要です。私は、袋状になっているものだと勝手に想像していました。被せるんですね。

だから、抱きかかえるように大事に運びます。

また、控え室にお食事を取りにもどります。また、お坊さんを先頭とした順番です。

オヤジは、骨壷に入って位牌の隣です。そばにはお食事が用意してあります。

私、食べたのでしょうけど覚えていません。会話もほとんど覚えていません。

ひとつ覚えているのは、私がお骨をもって秘密基地へ行くと云ったら兄がこう云いました。ここだけ鮮明に覚えています。

『俺が、部屋に隠しておこうか?』

『?』兄の言葉は想定外でした。

でも、兄の中で和解することができた。消化することが出来たのだと思いました。

『寂しいから、俺が持っていく。』

『分かった。』

こんな兄弟の会話がありました。オヤジ、たぶん聞いてくれていると思います。

兄弟、正直なにも無いときはほとんど連絡もすることもありませんでした。

少なくとも、私は実家との物理的距離が近いこともあり「いつでも行くことができる。」と、あまり親に顔を見せることは少なかったように思います。兄も同様かと思っていましたが、両親の異変を先に気づいたのは兄です。
ただ、両親とのコミュニケーションが上手ではないため、母の認知症にしてもオヤジの否定しても強引に診療を続けるということができませんでした。

たぶん、そんな親子関係であっても最期の最期は、兄弟が「どうにかしなきゃ。」と暗黙の動きをしたのだろうと思います。

兄が云いました。

『お前が、そんなに一生懸命動くとは思わなかった。』

確かに、あたっています。平山家に一大事が今までも何度もありました。ヘタレな私は、次男であることにすべてに兄の動きを見ていることが多く、兄に頼っていました。

今回ばかりは、頼るばかりではどうにもならんのです。

関係者から、『良く頑張りましたね。』と、労いの言葉をいただきます。有難いことです。

でも、ヘタレな私ができることをしただけ。それだけです。

世の息子どもは、仕事を優先して親の介護を女房まかせにしている人が多いのではないでしょうか?
しかたがない部分もあります。収入が無くなることは、崩壊を意味します。
サラリーマンの方も、自営または経営している方も聞いてください。

いつも介護している人に優しくしてあげてください。そして、ご自身も出来る限り親御さんに『顔』を見せてあげてください。自分を認識できなくなってもするのです。幸い、オヤジは私がきた事はすぐに認識して『頷く』『手で合図をする』をしてくれました。ずっと眠っている側で何時間もたたずんでもいました。
そうすることを続けて、失われた時間を取り戻すのです。

オヤジはずっと仕事をして、家を空けることが多い人でした。旅行に行った記憶もほんの少々。
でも、不満はなかった。いつでもオヤジのプロデュースする番組が流れていたから。

会話が無い時間を取り戻したかったのです。プライベートの共通する話題が乏しい父子です。
オヤジの仕事ばかり聞いていました。

そこでオヤジは

『お前、俺の仕事に興味あったんだ?』

『あるよ!』

『そうか!』嬉しそうに笑ってたくさんの事教えてくれました。

1つ聞くと15くらい戻ってきます。そんな楽しい時間でした。

オヤジの後姿を見ていて、このように感じています。

2つのいっしょうけんめい。

1つは、ひとつのところで頑張る「一所懸命」

もうひとつは、一生を通じて頑張る「一生懸命」

子ども番組というフィールドで頑張り続けて、一生涯プロデューサーとして頑張り続ける。

そんなオヤジです。

今、私が座る隣にオヤジがいます。お供え物は「最中」

『お前、分かってるな。』そう云ってくれていると思います。

オヤジの最期の物語『ショッカー外伝』。オヤジに意見したら、それ面白いなあと、云ってくれました。

まだ忙しく、落ち着いていませんが誰がなんと云おうと発表します。

『ショッカー外伝』

オヤジ、待っててくれよ。


この【急逝の1日前からの出来事】は、ここで終わります。
日記を書き留める習慣はありません。
でも、この記憶は残しておきたかった。そんな気持ちです。


今日の話題は、ここまで。
では、また。






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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】その5

昨日、不在がちだった秘密基地を死守してくれた仲間と久々に会食をしました。

私が信頼できる数少ない同志と云っても良いかもしれません。信用するという部分ではオヤジと違い、他人に対してすべてを信用しない部分だろうと思います。しかし、同志である彼は平成15年くらい前から交流が始まったのですが、私が泥水を啜るような状況から手を差し伸べてくれたこともありました。彼にはオヤジの状態を話し、秘密基地の不在で迷惑を掛けても怒るどころか心配してフォローまでしてくれました。会食では、久々の生ビールがうますぎて世界がグルグル回ってしまいましたが、楽しい時間でした。

本題に戻しましょう。
8月4日にオヤジの仕事関係者向けの亡骸とのお別れ会も、賑やかに、そして涙もありの有難い会でした。本当に多忙のところご参列しただいたみなさまには、深く御礼申し上げます。

8月5日 お通夜です。場所は所沢市斎場。やはりこういう施設は、業界用語なのかな?嫌悪施設と分類される建物なのです。葬儀や火葬場という非日常的な儀式は、忌み嫌う部分があり、近隣は霊園があり一戸建てのような住宅は見受けられません。それでも西武線の所沢駅、航空公園駅からはタクシーで移動する距離は、遠いものではありません。

開始時間は18:00
翌日の告別式は9:00からになりますので、義母を含めた家族は駅に程近いホテルに宿を予約していました。
喪主である私は、いろいろ打合せなどがありますから、まったく家族とは別行動になります。
数日前にネット上から予約しや宿も前のりして、宿泊費を家族に代わって前払いしました。最近は、チェックイン時に支払うスタイルが多いようです。

次男である私が喪主を務めるのは、私は以前から考えていたことでいた。オヤジと折り合いの悪い兄が務めるこは難しい可能性はある。しかも、母は相変わらず、父が入院したことも亡くなったことも記憶として残すことができません。まして、オヤジの悪口を云うことが元気の源と息子の目に写るのであれば、強制的に葬儀などに参列させることは、酷なのではないだろうかという考えは兄と一致していました。
兄に私が喪主を務めることを申し出ても異論を云うはずもなく、私が喪主を務めることになったのです。告別式を含め、マスコミ対応もこれでよかったと思います。

お通夜の祭壇を組み上げていく段階で、予想以上の献花を東映株式会社の岡田社長をはじめ合計36基をどのように並べるかを前日のお別れ会で業界を良く知る某氏に手伝ってもらい、喧々諤々と決めていきました。俳優さん方、音楽関係、出版社関係、当然、オヤジが父親ののように慕っていた石ノ森章太郎先生関係からも2基いただきました。ファンクラブ、息子どもの筋からも。恥ずかしながら、密葬とアナウンスしておりましたから親戚筋だけかな?祭壇が寂しかったら、あの手を使おうなんて考えていました。でも、蓋をあけてみて心配も吹き飛びました。
8月4日、5日のようすはカメラマンに入ってもらいましたので、関係者の了承が得られれば、その様子
はブログでUPします。

18:00からお通夜は、しめやかに始まりました。
喪主は祭壇に向かって、右側でお坊さんに近い場所に座るように指示されました。
進行役の指示に従って、粛々と進んでまいります。
ご焼香の順番が終盤にさしかかり、背の高い男性が立っています。その場は、振り返らないと目視できません。
そう、オヤジが最後の仮面ライダーとしてプロデュースした『仮面ライダーZX』で主役を演じた俳優 菅田俊さんでした。知人に教えてもらったそうです。

実は、菅田さんは『仮面ライダースーパー1』のオーディションに応募して最終選考の2人のうちのひとりでした。その映像が残っていて、伝説のイベント【40周年ライダー大集合】でも上映されました。

オヤジと菅田さんのエピソードは有名なので、また機会があればお話します。

菅田さんは、シャイで恩義を感じる俳優さんです。最期のお別れがしたかったのだと思います。お食事もとらずすぐに帰られて、お話がほとんどできませんでしたが、とても嬉しかった。有難うございました。

お通夜は、無事に終了しました。
その後、会食となります。
義父の葬儀でお世話になったお坊さんですから、面識のある家族がお坊さんを囲むように座ります。
もう、9年前の出来事です。年老いた義母をお坊さんは気遣ってくれて、ざっくばらんに声を掛けてくれます。
私がこのお坊さんが好きなのは、堅苦しくないこと。短い時間でもひととなりを見抜く力があること。本当に、このお坊さんにオヤジの葬儀で読経をお願いしてよかった。
義父の葬儀は9年前、私はそのころはサラリーマンでした。今は違います。(自称無職と申してます)お坊さんも察したのでしょう。『強くなりましたね。』と云っていただきました。それは、自覚しています。サラリーマンであることは、どこかに甘えがあります。自分が倒れたら、会社が最低限家族を守ってくれるであろう、そう思ってました。現実は、ものすごいことが起きたのですが緘口令がでています。ここでは話しません。

サラリーマンを辞めるということは、極論ではその日暮らしになります。でも、その厳しさが心地よいと思っています。訳の分からないところでのストレスが無くなったこと。自己責任の重さが何倍もあるけど、逆にどうなろうとも、貧乏になろうとも自分だけの責任です。納得が行くのです。生活に不安があることは否めません。でも、死ぬ気でやれば何とかなります。そして何とか乗り越えてきました。

2011年4月のオヤジの緊急入院から、とんでもない生活になりました。でも、大好きなオヤジのことであれば何でもできます。家族にも辛抱させました。納得してもらっています。最期には間に合いませんでした。でも、私が出来ること、悔いなくやったと胸が張れます。


今日の話題は、ここまで。
告別式と一連の総括の話は、次回に。
では、また。

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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】その4

31日の深夜、正確には日付は変わっていました。

早々に病院を退院しました。

一般的に、『退院』となると御目出度い話なのですが、快癒して病院を出る退院と、病院で亡くなり亡骸として病院を出る退院。オヤジは、後者でした。時間が時間でしたから、夜勤のナースさんひとりが見送ってくれました。

私は、オヤジの身の回りのモノで両手にいくつもの手提げ袋。すごく重く感じた記憶が残っています。

オヤジの亡骸を葬儀社に預け、一旦秘密基地へ帰還することになりました。でも、帰還しても眠れることもできません。

夜が明けて、改めて身支度をしてオヤジが安置されている葬儀社の会館に向かいました。

そこで見たオヤジの姿、やはり顔を白い布を被せられてきれいな布団で休んでいます。

生き返るはずもないオヤジに向かってボソボソ言葉を掛けます。

『おとうちゃん、よくがんばった。とんでもないスピードで病院に向かったけど間に合わなかったよ。ごめん。』

2人きりのときは、オヤジを「おとうちゃん」と呼ぶこともあります。50歳のおっさんですが、大きなオヤジにはまだまだ子どもなんですよ。おとうさん、オヤジ、おとうちゃん、場面によって使い分けしていましたが、間違っても『パパ』と呼ぶことはありません。父子は、そんなお上品ではありませんから。

葬儀社さんとの打合せはどんどん進みます。まず、日程をどうするか。私の考えをはっきりと伝えました。
もう、オヤジの親戚筋も高齢が多く会館から火葬場への移動をマイクロバスですることは避けたかった。

そこで、公の斎場ですることを考えていました。オヤジの住所地を考えれば、飯能の斎場が市民の特典を使えます。でも遠い。近くに何もない。ならば、特典をあきらめ所沢市斎場を強くお願いしました。日程は、葬儀で読経していただくお坊さんのスケジュールと斎場、火葬場のスケジュールを確認しなければなりません。

亡くなったのが7月31日、お通夜5日、告別式6日という日程になりました。しかし、暑い季節柄、亡骸の痛みも夏場はは早いようで、葬儀社はこまめに亡骸の保存状態の保持につとめてくれました。

時系列での話を少し巻き戻します。

病院から急変があって、移動中に実兄への連絡ともうひとりに連絡を入れました。その人は、読売新聞の鈴木美潮さんです。オヤジの急変から、経過、新聞への訃報記事の掲載依頼、ずっと寝ないでまってくれました。たしかに、彼女が14歳からオヤジのひとりのファンでありましたが、常識的であり続けてくれる貴重な方です。オヤジを何も知らない記者にテンプレートのような訃報記事を流されるより、鈴木美潮さんに書いてほしい。そう思っていました。8月1日の朝刊締め切りに間に合いません。夕刊になります。各紙の夕刊締め切り後に、東映さんにお知らせしてもらい、事実上他紙は後追い記事になったのです。

時系列を戻します。

一般的に葬儀の費用は、どんぶり勘定だと噂で聞いていました。
内容が分からないことは聞く。何度も確認する。うるさい遺族だったに違いないです。

うるさい遺族ついでに亡骸のお別れ会をしたいと伝え、関係者をお迎えすることができました。

それも葬儀社の協力があったからです。

それまでは、2階から地下、そして5階(?)に安置場所を移動しました。安置している間にも、他の葬儀が入っているのです。4日のお別れとは別日程でご焼香にきてくれた方も数名いました。トップは、キカイダーで主役を演じた伴大介さん。病院でのお見舞いもトップで参上してくれました。実に有難いことです。そこでも、貴重なお話を拝聴することができました。3日には、はるか遠いところからライダーマンの山口さんの娘さん。もうご結婚されて、かわいいお子さんもいます。お仕事の関係で3日にいらしてくれました。オヤジの亡骸から離れがたく、お話をたくさんしてくれました。

アナウンスした4日は、終わってみれば40名もの関係者が時間差はあるものの、会館がある場所まで来てくれました。
葬儀社のはからいで、献花を亡骸のお別れ会の段階で並べることができました。
献花に立てられた札には、ビックリしたことにオヤジが退職した東映株式会社の代表取締役や東映各部署、アニソンの帝王である水木一郎さん、串田さん、ここには書ききれないほどの数でした。この場を借りて、深く御礼申し上げます。

オヤジが旅装束を着て棺にはいっているところまでみなさん、最期の別れをしてくれます。

オヤジと一緒に長生きすると約束した特撮研究所の矢島会長は、ご子息と特撮監督の佛田洋さんを従えてきてくれました。矢島会長は気丈に振舞っていましたが、後姿は落胆されていました。その弟子にあたる、佛田監督はオヤジの痩せ細った顔を見て感じるものがあったのか、感極まって泣いてくれました。

スカイライダーの村上弘明さんも、ご多忙のところ4日に参列してくださいました。
オヤジが寝ている棺の前で私に教えてくれました。
村上弘明さんいわく
「子ども4人いるんですよ。すべてのことは先生と会ったことから始まっているんです。」
深々と手を合わせてくれました。

藤岡弘、さんも本来ロケでオヤジに会いにこれないと連絡がありましたが、急遽来てくれることになりました。

『オヤジ、こんなにたくさん来てくれたよ。幸せモンだよね。よかったね。』

バロム1の高野浩幸さんが集合写真をFacebookでUpしていましたが、早々たるメンバーが4日に来てくれました。
写真、レアですから探してください。

オヤジがプロデュースした番組の繋がり、同じ番組でなくても意外な繋がりがあって笑いあり、涙あり賑やかな会でありました。オヤジは泣き虫です。でも、賑やかに送ってくれるほうが喜んでくれると思います。

昨年、11月に講談社から出版した【泣き虫プロデューサーの遺言状】を出版当初に、買い取って300冊プールしてあります。
その理由ですが、主治医からはいつ何が起こるかわかりません。と宣告されていたからです。では、その時期は?と聞くと、分かりませんと云うばかり。心臓がどれだけもってくれるか、そればかりはオヤジの体力やもろもろの事が重なってくるからです。
その300冊を偲ぶ会の記念品として考えています。時間と予算が許されれば、書籍の帯ぐらいは赤から黒に交換したいと講談社さんと相談しようと思っています。


さて、土曜日の漫画家の村枝賢一先生が東京に戻って某氏と打合せすると聞いたので合流させていただきました。
村枝先生も、度々オヤジの容態を気にしていただいておりました。

この会話だけご紹介します。
村枝賢一先生のおかげで、昭和ライダーが再び脚光を浴びるようになり、有難うございます。

先生は恐縮して、このようにお話なさっていました。

購読してくれたファンは、みんな昭和のライダーがずっと好きな方だったのですよ。ただ、昭和ライダーファンの思いを受け止める受け皿がいままでなかったということなんです。確かに意識的に人間態の主役を格好良く描こうと意識したこともあります。ね、あの俳優さんはね。

嬉しかった。本当に嬉しかった。

散々、昭和ライダーはオワコンだの、オヤジの書く物語は云々などと悔しく、寂しい思いをしてきました。

ブログやTwitter、Facebookで良く目にします。
当時ライダーを見ていた子どもが大人になり家庭を築いて、自分の子どもに昭和ライダーを見せる。十分通じるものがあるし、OPからEDまで食いつくように視聴してますって。

息子の私は、確信しています。

これからもずっと愛され続けていくキャラクター、番組がオヤジが命を注いだものであることを。

今日の話題は、ここまで。
では、また。

その5は、お通夜、告別式のようすを書いてみます。


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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】その3

告別式の前に嗚咽の漏らした相手・・・・

漫画家 村枝賢一先生でした。村枝先生には他人からではなく、直接伝えたかったのです。

何度かコールしました。お忙しいのか繋がりませんでした。

やがて、村枝先生からお電話をいただきました。

『先生、オヤジが亡くなりました。オヤジから命じられた看取る約束が果たせませんでした。』

たぶん、亡くなりましたまではハッキリ伝えられましたが、看取る部分は嗚咽でグダグダです。

先生も電話口で泣いてくれました。

『すみません、電話切ります』と云って通話を終了したのです。

ネット上にUPしましたが、自分の為にという動機だとどこか甘くなります。でもオヤジの為という動機ならば

過労で倒れようとも、泥水を啜るような生活になろうと、必死にやり遂げられるものです。

家族には内緒でしたが、7月に体調不良&過労で倒れました。私が救急搬送されました。短期の入院で無理やり

脱獄(失礼)しましたけど。オヤジは私しか面倒が見られない状況下で、入院などしている場合ではないのです。

本当に消耗戦でした。必死に片道100kmを通い、入院費など工面して、かつオヤジに顔を見せる。病院に行っても

具体的にすることは無いのです。だからと云って家族が誰も行かないのは、寂しすぎる。『顔』を見せる。これが大事なことでした。

病院でも、何故か次男坊しか来ない仮面ライダーのおじいちゃんと有名になりました。

入間川病院のスタッフも狭山ケアセンターのスタッフも、大変親身に良くしてくれました。

まだ、車椅子で外出が出来た頃にも大変協力的で銀座三笠会館での東映同期会に参加できました。

ここまでやり抜いた理由はここにあります。

9年前に義父は自宅の畳の上で最期を迎えたいという望みを家族に訴えていました。家族は受け入れ、家内と義母、義姉は必死に介護していました。自宅で看取るという、想像以上に大変な事であり壮絶なことがありました。介護する側も疲弊し、倒れるかもしれないと思いました。

でも、義父が大好きな家内が泣きながら云うのです。

『ああすれば良かった。こうすれば良かった。』あんなに必死に介護しても悔いが残るって云うのです。

オヤジが入院して家内が云いました。

『家のことは心配しないで。私が守るから。あなたが悔いが残らないようにしてね。』

と云ってくれたのです。本当に出来すぎの家内です。

それからは、私の生活の中心はオヤジになりました。お金の工面もオヤジの為。

どうやら仮面ライダーのプロデューサーというのは、唸るほどのお金持ちだと勘違いしている方がたくさんいます。

もう一度、念を押します。サラリーマンプロデューサーですから番組がヒットしようが仕事がどんなに忙しかろうがサラリーマン収入です。しかも局のプロデューサーの足元にも及ばない収入です。

だーかーらー、相続など心配無用です。分かりましたか?争いが発生する余地もないのです。

8月6日に告別式を終えたばかりの息子のアカウントに、相続、弁護士、税理士などツイを放り込むことは

親切心だったかもしれません。でも、社会常識を逸脱した行為です。ツイを放り投げた方、あなたの親御さんが亡くなっって間もないとき、同様のツイを誰かが放り投げて「お気づかいありがとう。」と云えるでしょうか?

お金持ちだったなら、こんなにお金の工面に必死になりません。あー、生々しい話題です。

『仏の平山』と呼ばれるほど優しい方と云われているようです。

仮面ライダー好きに悪い人はいないとオヤジは思っていました。

そこに付け込んだ輩がいっぱいいました。

仏から借りた資料は借りパクする。いまだに返却されません。プロの編集者も同様です。

いままでちやほやしていたファンが、手のひらを返したようにこう言い放ちました。

『仕事をした気にさせてやっていたのは俺だ!』

これをTwitterで見たときは、殴りに行こうと思いました。

『もう平山のコンテンツは終わった。古いんだよ。』と吐き捨てた輩もいます。

本当に悔しい思いをし続けました。

さらに、脳内出血の入院後いままで側にいたファンが消えました。理由は様々でしょう。

そこに付け込んだ輩も湧いてでました。

80歳に近いオヤジを徒歩で引きずり回し、深夜まで同行させた輩。

オヤジと同行することは、業界の何処でも行けることを意味します。

健康の為とかいい訳を笑いながら言い放つ輩の表情は、もはやファンではありません。


確かにオヤジは爺扱いされるのは嫌だったかもしれません。

でも常識というものがあるでしょう。家族にも疲れたと発言しないオヤジが歩きつかれて

「休ませてくれ」と云いました。ははは、笑いながら息子に云う無神経さ。

それを聞いた私は、その場は耐えましたが、若い衆を使って埋めてやろう(云い過ぎですか?)と思ったものです。

しかも、決定的だったのはこの発言。

「某俳優は、オヤジに頭が上がらない。オヤジは某俳優に頭が上がらない。」ドヤ顔で私に言い放ちました。

オヤジがプロデューサーであるという意識があるうち、我が軍または我陣営と称するポリシーに

俳優さんに頭が上がらないという表現を云う。私に云うということは、拡声器のように誰にでも自慢げに云うに違いないと判断しました。

もう、この輩をオヤジに接触させてはならない。オヤジを守るために必死だったのです。

もう分かりますよね。

俳優さんや、主要スタッフ、PDと親しくなると勘違いするスタイルが一緒なのです。

直接、目当ての方とコンタクトが取れるようになると「俺ってすごい?」と思い始めます。

そのうち、他のファンを見下すようになります。この方に会わせてやっている俺様は君等よりステージは高いところにいるんだぜ。ざまあみろって。

著名な方々も馬鹿ではありません。辟易してくると出入り禁止になるのです。

事実を書き殴りした文章です。逃げも隠れもしません。

明朝UPの際にソフトタッチにならないよう気をつけます。

今日の話題はここまで。
まだまだ、続きがあります。
では、また。


追伸
てにをは、を少々訂正しました。
一晩置いても、文章の主旨は曲げません。

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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】その2

疲労困憊の末、ニンニク注射を打ってもらい9月に行う四十九日まで乗り切れるようメンテナンスをしてきました。

さて、31日の23時18分に入間川病院から急変を告げられ、向かうところで昨日は終わりました。

その続きです。

着るものだけ整えて、病院に向かいました。

スピードは出していましたが、意外と冷静だったように思います。

ストップ&ゴーが多い一般道を使うとロクなことが無いと思い、君津から川越まで高速道をひた走りました。

病院北口のインターホンを押し、5階へ向かいます。新しい建物になった病院建物は移動手段はエレベーターのみ

で中々1階に来なかった記憶があります。

ナースステーションで声を掛け、オヤジの部屋へ向かいます。

そこで見た光景は・・・

顔に白い布が掛けられたオヤジがいました。間に合いませんでした。

オヤジに『お前が俺を看取れ。』と云われ私を奮い立たせてくれたあの日。

愚直に病院に通う日々。

映画かドラマのように勝手に想像していました。

オヤジが亡くなるまで時間の余裕があり、オヤジの手を握って最期の言葉を交わすことができる。

そんな幻想です。事実はそんな甘いものではありませんでした。

23時18分に急変の電話があり、その6分後の23時24分に心肺停止。

病院内に居なければ間に合うはずもない最期でした。

茫然自失と云いたいのですが、怒涛のごとく此処から私がやらなければならないことが山ほどありました。

病院側としては、速やかに退院する手順になります。

オヤジの安置場所を決めて、移動しなければなりません。分かっていたことですが、安置場所がすぐ決まらない事実がありました。

普通の家庭であれば、オヤジの自宅に安置するところですが母の認知症がひどく、幻覚で交番まで巻き込む騒ぎを

頻繁に起こしていました。そんな自宅にオヤジを安置することが出来ず、何件かの葬儀屋に連絡を取り落ち着き先が決まりました。

不謹慎ながら、ネットでここかなという葬儀屋の連絡先をピックアップしていました。その他病院から紹介された2社に電話をして、安置場所の相談をしたのです。

合計3社に連絡をしたのですが24時間営業と云えども酷い対応でした。明らかに寝起きの声で要領を得ません。
こちらは、退院を迫られており要領を得ない2社は電話をフェードアウトし、残り1社は若い男性が経験は浅そうでしたが誠意ある対応で、しかも病院まで来てくれたのです。

オヤジを亡くした私としては、安心した一瞬でした。
しかも、自社の会館に安置場所を提供し、そこで亡骸とのお別れ会を開く協力を惜しみなくしてくれました。

狭山市内の東綜社という葬儀社です。

安置した翌日から、亡骸とのお別れ会、お通夜、告別式の打ち合わせです。

お経をあげてくれる僧侶は、決めていました。義父の葬儀でお世話になった和尚さんです。

まったく知らない和尚さんで訳も分からず、あっという間に送ることは避けたかった。それだけです。

ひとつひとつ、納得する形でオヤジを送りたかった。

和尚さんと戒名の相談もお任せにしたくない。本当にやりにくい親族だったでしょう。

兄も家族葬にすることに同意しており、喪主も快く私がすることに同意してくれました。

一般的に考えて、妻でも長男でもない私が喪主を務めることは奇異に感じたかもしれません。

オヤジの関係者、マスコミなどの応対を考えれば私が一手に引き受けるのがベストであろうという判断です。

オヤジの訃報の第一報は読売新聞と決めていました。某氏は、平等に共同通信へ連絡してなんて云ってましたが

まったくオヤジの予備知識も入ってない新聞記者に訃報を入れるなど、考えられなかったのです。

有難いことにオヤジが勤めていた東映の総務部がマスコミの窓口となってくれました。

これは遺族にとって本当に有難いことで、この場を借りて御礼申し上げます。

他の取材記者は、正直残念でした。まったく予備知識もない状態での取材、すこしはオヤジの自伝奮闘記ぐらい、

ななめ読みでもいいから、経歴などありきたりの質問には辟易しました。

ある大手新聞記者など、Twitterの個人のアカウントからダイレクトメールで取材申し込みがありました。

誰でも知っている新聞社ですよ。フォロワーであったことすら覚えていない人です。ツイの交換もしていません。

言い訳がまた、ありえなかった。

「連絡先が分からなかったもので。」

他のマスコミは常識的ルートから礼儀正しく取材申し込みがありましたよ。知らなかったは理由にならない。

そんな場面もありました。本当にメソメソ泣くなんて余裕はありませんでした。

告別式で泣く前に、ある人に報告してるときに嗚咽を漏らしてしまいました。

次回は、その人の話からご紹介します。

では、また。

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拡散願う【急逝の1日前からの出来事】その1

8月8日、私の誕生日でしたので慰労も兼ねて家族と食事に行ってきました。

まだまだ、平常生活には程遠いのですが、急がずゆっくり着地に努めます。

さて、予告どおりに7月30日の面会から何が起きてどうなったのかを以下、記してまいります。

7月30日火曜日 

毎週火曜日、土曜日にオヤジへの面会を厳しく自分への責務だといい聞かせてきました。

入院先は、狭山市の入間川病院。平成7年の狭山市柏原の一戸建てに住んでいた時代に脳内出血で搬送されてか

ら信頼できる病院として、父が何かあるとここの病院を利用するようになっていました。

面会時間は、病院の規則で午後2時からとなっています。

この日は野暮用があり、午後3時前にオヤジの入院するフロアに行きました。

珍しく、起きていました。いつもは、うつらうつら眠っている時が多く「次男坊が着たぞ。」と声を掛けていまし

た。特段、苦痛な表情もする訳でもなく、酸素吸入のレベルもいつもどおりです。ただ、最近は痰をカテーテルで

吸入する量が多くなっていました。病院スタッフは、いつも優しく父子に声を掛けてくださり

有難く思っておりました。ひとつ気になっていたこと。それは、病室入り口の名札の前に色分けをしていました。

病院スタッフに聞くまでも無く、病状のレベルを指していると推察されます。先日の急変の段階で黄色から赤にな

なっていました。

父子のコミュニケーションは、簡単なものでしたが交わすことは可能でした。OKは頷く。駄目なことは、手で払う

仕草をします。主治医からの詳細な説明段階でレントゲン写真では、片肺が真っ白。心嚢水はかなりな量が溜まっていることが素人

でもわかります。その為か、お喋りする声は本当に小さくなっていました。週2回を責務として面会に来ても、実

はやることが無いのです。全ては病院スタッフが親切にしてくれていました。出来の悪い息子でも、顔を見せて

あげること。それと病院側からの看護計画を聞きサインすること。毎月の入院費用を確認し、必死にその金銭を

用意して月内に納付すること。それくらいです。30日火曜日は、微熱があるのかなという程度で特段心配をして

いませんでした。

7月31日水曜日

秘密基地と称する個人事務所で一日を忙しく過ごし上空が暗くなってから、棲家へ戻った記憶があります。

棲家では、ノートPCと大きなモニターを繋げて配信の番組を見ていました。

もう、そろそろシャワーを浴びようかなと思った矢先、私の携帯電話が鳴り響きました。

画面表示は、入間川病院です。

この日は何故か、すんなりと電話を取ることが出来ました。

看護士『平山亨さんの次男さんでしょうか?入間川病院の@@です。お父様の呼吸が大変弱くなり危険な状態です

 すぐ病院に来てください。どれくらいで到着しますか?』

私 『2時間半かかるかもしれません』

看護士『間に合わないかもしれません』

私 『すぐに伺います』

服だけ整えて、病院へ向かいました。


長くなりそうなので、この続きは明日。

では、また。

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拡散願う【あの野生的な方からの弔電です。】



8月4日の亡骸とのお別れ会
8月5,6日のお通夜、告別式にたくさんの献花、弔電をいただき、この場を借りて御礼申し上げます。

その中でも、父のプロデュースした【仮面ライダーアマゾン】の主役を演じていただいた岡崎徹さまからの
弔電をご紹介したいと思います。

《亨先生のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈りいたします。

ご生前のご厚情に深く感謝いたしますとともに故人のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

ご家族様には、どうぞご自愛くださいませ。

先生の素敵な笑顔いつまでも忘れません。》
          六代目ライダー 岡崎 徹


岡崎さん。弔電、誠に有難うございます。

納骨までの間、父の側にいたくてむさ苦しい棲家にいてもらっています。

何だかオヤジがその棲家を『お前、掃除ということを知らんのか?』と云われそうです。

でも私、笑顔で『オヤジが云うなよ。緊急入院後のオヤジの部屋を勝手に掃除した。某氏2名が汗水たらして

掃除してくれたんだぜ。ありゃ無いよ。』

オヤジ、笑いながら『そうかあ?』なんて、誤魔化しそうです。


やはり、岡崎さんもオヤジの笑顔が印象的だったのですね。

そして、六代目ライダーと云っていただけたのが、とても嬉しかった。

あの伝説のイベント(40周年ライダー大集合)で代理でご挨拶させていただきました。

次の大集合イベントには、車椅子だろうとストレッチャーだろうとオヤジを支えて壇上に・・・と云った記憶が

あります。リップサービスなんかじゃありません。本気の発言でした。事ある毎に、『もう一度みんなに』と

オヤジに発破を掛けていました。オヤジも小さく頷き本気でした。

その矢先に深夜、息を引き取りました。

次回の記事は30日の面会から密葬までの時系列でお話させていただきます。


今日はここまで。
では、また。


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拡散願う【父の戒名と何故、次男が喪主の申し出をした理由】

父の戒名が決まりましたので、お知らせします。

【映楽院亨山徳成居士】

読み方は、【えいらくいんこうざんとくせいこじ】

《楽しい映像(映画・テレビ)をたくさんプロデュースして人々を楽しませ徳を成したひと》 という意味です。

オヤジの亨という一文字を入れて、亨という文字はコウと読むそうです。

オヤジの葬儀の読経およに戒名の名付けをお願いしたお坊さまは、私の義父の葬儀の読経をしていただいた方です

オヤジの葬儀で避けたかったのは、慌しい中で何も分からず流れ作業で執り行われることでした。

義父の葬儀などに読経していただいたお坊さまは、もう9年前になりますが印象深く先々、お世話になりたいと考えておりました。

後日、7月30日からの時系列で何が起こったのかをUPしたいと考えています。

新聞報道で、喪主が次男である私がすることをお知らせしました。

兄弟で両親の世話をする上で、私が担当だったこと。

オヤジの仕事関係やマスコミ対応を考えての、喪主の申し出となったのです。

確かに、兄とオヤジの関係が良好ではありませんでした。

本当に接触を避けたいのであれば、2011年4月の緊急入院騒ぎに実家に行かないでしょう。

そして事ある毎に、私に様子を伺ってきました。

親子断絶をしたのであれば、通夜密葬に参列もしないはずです。

それどころか、親戚筋への連絡や応対をしてくれました。

やはり父子の繋がりは断ち切ることは出来ないのです。

一連の密葬が終盤に差し掛かり、納棺されたオヤジのカラダの上に特別注文でつくった原稿用紙、2Bの鉛筆。

父が俺の本を出せと命じた【泣き虫プロデューサーの遺言状】を1冊入れました。

いただいた献花をこれでもかというくらいに、並べて入れた時です。

いままで我慢を重ねていたものが溢れ出し、泣きました。

もう、父の姿を見ることが出来るのが最期になると思うと、止まりません。



葬儀をだすことに、いろいろと考えました。

業界関係者を迎えて大掛かりな葬儀をすることは、この日程や平山家の力量から考えて無謀だと判断した次第です

後日、改めて【偲ぶ会】をプロデュースし、会場や日程が決まり次第、報道やブログ、Twitter,Facebookでお知らせしたいと思います。

次回のブログ記事は、アマゾンライダーの岡崎徹さんの弔電をご紹介します。

この話題はここまで。
では、また。


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【泣き虫プロデューサーの遺言状】講談社より好評発売中。
父、平山亨は、2013年7月31日23時24分心不全により他界いたしました。

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